6月 16th, 2010 by Akihiro SAITO
私の本務校では図書館のウェブサイトに教員推薦図書を掲示しており,そこで先日,フロムの「愛するということ」を取り上げた.それに伴い,十数年ぶりに読み返してみたので,少しその話をしてみたい.
本書は名著として名高い「自由からの逃走」などで知られ,フロイト的な精神分析をベースにしながらより社会との関わりを強く意識した性格論を提唱したことでも知られるErich Frommの,もう一つの代表的とも言える著書である.
本書では,愛とは誰もが自然に浸ることの出来る感情ではなく,自らの人格を発達させ,それが生産的な方向に向くよう努力することによってのみ,成し遂げられるのだと述べている.つまり,いかにして人を愛することの出来る人間になるのかということは,いかに生きていくべきかに直結している.それが彼の主張である.
その主張を示すために,兄弟愛,母性愛,異性愛,自己愛に神の愛など,様々なあり得るべき愛の形を述べ,その上で現代(と言っても,50年前のことであるが,今にも十分通じると思われる)社会における愛の崩壊,つまり,現代がいかに愛するということの難しい社会かについて述べ,その上で,いかにして愛する能力を身につけていくべきかを説明している.
全体を通してシンプルに言うならば,1941年,まだ戦中にファシズムの勃興について述べた「自由からの逃走」以来連綿と主張され続けていた,権威主義的性格,サディズム,マゾヒズムといった性格特性からいかにして脱却し,自由で独立した個として社会に関わっていくべきかについて,愛という側面から触れ直したものと捉えることが出来るだろう.だが,題材が「愛」という,一見我々に身近に見えるものであり,だからこそより,問題の難しさ,大きさを感じさせるのだと思う.
本書を初めて読んだのは学部学生の頃だった訳だが,愛という言葉の持つ重みに圧倒されたのをよく覚えている.それと同時に,私は人を愛することの出来る人間になることが出来るのだろうかと悩んだ訳だが,その悩みは十数年経った今でも解決できていないような気がする.「愛」というのは熟々難しい.


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心理学
6月 15th, 2010 by Akihiro SAITO
本当は,前回の解答編のようなものを書こうかと思ったのだが,久々に倫理学の本を読み返しているうちに面白くなってしまい,また,マイケル・サンデルの「これからの『正義』の話をしよう」を買ってしまったので,それを読み終わってから書いた方がいいかなという考えもあり,そちらはもうちょっと後回しにしようかと思う.

ということで,少々話を変えて,6月13日に地球へと帰還した小惑星探査機「はやぶさ」について考えてみたい.と言っても,はやぶさに関する経緯等は多くのところで語られているものであり,ここでは特に述べるつもりはない.詳しく知りたいというのであれば,毎日新聞のサイトがわかりやすいので,こちらを参照することをお勧めする.
はやぶさの地球への帰還,それにかかわるいくつかの写真,動画を見て,正直なところ私は涙した.同じように涙を流していた人は決して珍しくなかったと思う.そして,私がまず思ったのは,何故この「はやぶさ」は,日本人の心の琴線にこうも触れてくるのだろうということだ.一つの仕事を,自らの身すら焼きながら成し遂げる自己犠牲,7年にも渡る孤独な旅を終えて故郷に帰ってくる流離譚的な側面,そして,そういった「物語」を人工物にまで敷衍する日本的(神道的)アニミズム.そのあたりで解説するのが自然なのだろうか.世界に日本の技術力をアピールした,その誇らしさも忘れてはならないか.
日本的アニミズムをはっきりと感じたのが,この画像を見たときである.近年のインターネット文化において頻繁に見られる擬人化の一例だ.勿論ここまでダイレクトにではないが,こういった見られ方が感動を産んだ要因の一つであることには間違いあるまい.
ただ一方で,ネット上での熱狂振りを見ると,若干の違和感を覚える部分もある.一番気になったのが予算に関してだ.twitterで情報を収集していたのだが,途中から次期はやぶさ予算確保への署名運動や,JAXAiの廃止に対する批判がどんどん増えていた.しかしこれは,大きな間違いだと思う.確かにはやぶさは感動を呼んだ.可能であるならば,私自身,あの感動をもう一度味わいたいと思う.しかし,「感動」の対価として予算を求めるのは科学のあり方ではない.どちらかと言えばスポーツのあり方だ.科学研究に対して多額の予算を確保するならば,成果が予算に見合うものかを丁寧に,冷静に評価しなければならない.そうでなければ,見栄えのする,華やかな研究のみに予算が集中し,20年,30年先になって初めてその価値がわかる基礎研究に対する軽視が強まり,結果として道を誤ってしまうだろう.
何度も言うが,私ははやぶさの快挙に感動し,涙した.だが,涙した目ではやぶさを眺め,評価してはならない.
(参考資料)
USTREAMによるはやぶさ帰還の映像(アーカイブ)
NHKの午前1時のニュース
bbcによる動画
読売新聞撮影によるはやぶさの帰還
朝日新聞撮影によるはやぶさの帰還
毎日新聞撮影によるはやぶさの帰還
はやぶさが最後に撮影した地球の写真
BBCによる報道
和歌山大学秋山演亮特任教授のblog
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5月 20th, 2010 by Akihiro SAITO
専門分野が定まって以降あまり読まなくなってしまったが,高校生~大学1,2年生の頃は,哲学科を志望し,進級した同級生の影響で哲学,現代思想系の本を結構読んでいたものだった.中でも,特に面白かったのは倫理学だ.倫理というのは,辞書を調べると「人として守るべき道.道徳.モラル」となっている(大辞林第2版より).倫理学というのは,つまり善し悪しについて考える学問と言っていいだろう.論理学,美学とともに哲学の基本的分野とされているようだ.こう書くと,あまり面白そうには見えないのだが,実際に取り扱われた問題を見るとかなり面白い,と言っては不謹慎かも知れないが,興味深いのは間違いない.
たとえば,ある不治の病にかかっている人が10人いるのだが,特効薬は1人分しかないとする.そのとき,その薬をどうやって,誰に与えるべきだろうかと考えてみる.一番公平なのは,ランダムに1人選択することである.しかし,基準はそれだけとは限らない.生存させたときに最も社会に貢献できそうな人というのも一つの判断基準であるし,一番症状の重い人という考え方もある.全滅のリスクを覚悟して,1人分を10人で分けるのだって考え方だ.さて,どれが正しいのだろうか.
ちなみに,今でも同じ原則かはわからないのだが,アメリカでは1996年から臓器移植の対象者選定の基準として,重症である患者というのをやめて,移植したときに最も長い生存時間が得られそうな人としているようだ.私だったら,ちょっとアレンジして移植による生存時間の増加量の期待値が最も大きい人にするかなと思うところだが,どうだろうか.
こういった議論をするときに,よく取り上げられるのがベンサムの「最大多数の最大幸福」という法則,あるいはその考えに影響を受けて構築されたミルの功利主義である.誤解を恐れず大雑把に言ってしまえば(そしてミルの言う功利主義とは若干異なるのだが),幸福を量として考えて,社会全体としての幸福の総量が最大とすることを目指すというものだ.この考えに従えば,アメリカで行われた基準である移植したときに最も長い生存時間が得られそうな人というのは,生存時間の最大化という意味で概ね合理的と言えよう.
ただし,この考え方だけでは問題が生じることも多い.たとえば間瀬元朗のコミック「イキガミ」(あるいは,その元となったとされる星新一の小説「生活維持省」)などが好例だろう.これらの作品で行っていることは,結果として幸福の最大化には貢献しているのだろうが,実際にそんなことが認められるのか?と問われれば,ほぼ100%ノーという回答になるのではないだろうか.では,以下のような問いならどうだろうか?これは,ジョン・ハリスが提唱した思考実験,「サバイバル・ロッタリー」と呼ばれるものである.次のエントリで考え方等を述べるので,今回は出題までとしておく.
A国では,重病に対する医療は臓器移植に依存している.一方で,移植技術自体は目覚ましい進歩を遂げており,移植さえすれば病気は100%完治すると言っても良い状況である.しかし,移植用の臓器の不足は慢性的な問題となっている.そこで,A国では次のような法案を成立させた.臓器の提供者を,定期的に健康な市民からくじでランダムに選ぶというものだ.この法案が実施された結果として,当然のことながら,くじに当たってしまった健康な市民の命は絶たれることになるが,1人がくじで選ばれるごとに少なくとも10人の命が助かることになった.さて,このような制度は許されるものであろうか.
尚,私が初めて倫理学を勉強するときに読んで,このエントリを書くに当たっても参考にしたのは加藤尚武先生の「現代倫理学入門」である.正直かなり堅苦しいタイトルであり,しかも扱っている問題はかなり難しいと思うのだが,一方で文章自体はとても平易で読みやすく,高校生以上であれば十分に読めるものである(実際,私の通っていた高校の図書館の蔵書であり,私も高校時代に読んだが,理解そのものにはまったく問題なかった).これ以外についても,加藤先生の著書は文庫・新書レベルならどれも非常に読みやすく,内容的にも考えさせられるところが多いので,特に学生の皆さんにお勧めしたい.わかりやすく,伝わりやすい表現ながら内容は高レベル.文章を書くとき,授業をするときにはこうせねばと私自身思うのだが,中々難しいものだ.

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サバイバル・ロッタリー,
倫理学
3月 20th, 2010 by Akihiro SAITO
略称というのは,考えてみると結構面白い.そもそも,ある組織が短い略称で通用するというのは,その組織が一定以上の知名度を持っているということと繋がっている.裏を返せば,略称が通じない,あるいはある略称を否定されるというのは,組織の知名度に関する否定的な意見であり得る訳で,その意味で問題になりやすいのも理解できる.
以前,兵庫にある某大学の院生と話していたときに,「いちだい」がどうこうと言われたことがある.全く理解できなかったので聞き返してみると,どうも「大阪市立大」の略称として,「市大」と呼んでいたらしい.確かに大阪近辺でそう略するのは理解できるが,横浜出身(横浜には当然ながら横浜市立大学がある)で,北九州市立大学に勤務する私に「市大」を「いちだい」と読んで,「大阪市立大学」の略称であると理解せよと言うのは随分な話だなと思ったのをよく覚えている.
ちなみに言うと,私の場合,神奈川県内の人間と会話するときは横浜市立大を「市大(しだい)」,横浜国立大を「国大」と呼ぶが,流石にそれ以外のエリアの人と話すときだと,「横市(よこいち)」や「横国」,あるいは略さずに呼んでいる.北九州市立大は,九州エリアの人と話すときだけ「北九大」,それ以外の人と話すときには特に略さずに呼んでいる.母校早稲田大学は,寧ろ大学の方を外して早稲田と呼ぶことが多い.大学の早稲田なのか地名の早稲田なのかは,文脈でわかるでしょということだ.
こういった略称は,一つの組織が占有し,それ以外に誤解の余地がなければ問題は少ない.たとえば,早稲田大学の略称である「早大」のように,名称に「早」という文字を使う大学が他になければ,(実際の所私も含めた早稲田大学関係者はあまりこの略称を使っていないのだが)この略称に誤解の余地はない.また,東大,京大程度に一般化されていれば重複のリスクはないだろう.しかし,そうではないときには,これまでに挙げたような問題が生じる.
メジャーな例では,「関学」が挙げられる.関学と略す場合,関西学院大を指すことが多いと思われる.しかし,関東学院大,関東学園大という大学もあり,公的文書はともかく,日常会話においては,特に関西学院大よりも長い歴史を持つ関東学院大について,関学と略するケースは珍しくない.
また,「神大」も問題の生じやすい略称と言える.箱根駅伝のイメージなどもあり,神奈川大の略称「じんだい」と読まれるケースが多いが,京阪神エリアでは神戸大の略称「しんだい」と読まれる.奇しくも,「関学」同様兵庫県にある大学と横浜市にある大学で略称が重複している訳だ.
これら程大きな問題にはなっていないが,「福大」なども中々厄介である.東から福島大学,福井大学,福山大学,福岡大学と,4つもの大学が同じ略称を共有している.
若干方向が異なるが,「めーだい」も難しい.東京六大学の一つにして,2010年度入試で全国最多の受験者数を記録した明治大学の略称「明大」と,旧帝大である名古屋大学の略称「名大」,全国屈指の知名度を持つ大学同士で略称の読み方が重複してしまっている.
こういったときに,よく議論の対象となるのが登録商標となっているか否かである.たとえば,関学,関学大,K.G.等は学校法人関西学院の商標,KGUは学校法人関東学院の商標である.また,神大は学校法人神奈川大学の登録商標である.ただしこれは,飽くまでも学校法人が公式の略称としてアピールしているか否かを示しているに過ぎない点には注意が必要である.九大を九州大学の略称として用いることに疑義を抱く人はそういうないと思うが,九大は登録商標になっていない.また,関東学院にKGUという略称を用いることは地元でも殆どない.
これまで大学の話ばかり取り上げてきたが,これは大学に限った問題ではない.たとえば,ニッカンスポーツ等一部のスポーツ新聞では,Jリーグの横浜Fマリノスを「横浜」と略し,同じくJリーグの横浜FCは略さずに表記している.これは,チームとしての歴史,知名度の差もあるという意味なのだろうが,実際の所マリノスが現行のチーム名になったのも(それまでは横浜Mが略称となっていた),横浜FCが発足したのも同じ1999年である訳で(ただし,横浜FCがJリーグ入りしたのは2001年),同じJリーグに属し,一時は共にJ1にいた両チームに略称で差をつけるのは不公平との誹りは免れないだろう.たとえば,Jリーグ創設段階ではガンバ大阪は大阪と略されていたが,セレッソ大阪がJリーグに加入して以降,一方がJ2に落ちたとしても,変わらずG大阪,C大阪と表記しているのだから.
いずれにしても,コミュニケーションを取る際には,特に違うエリアの人には自分の使っている略称は通じないもの配慮するのが大事なんだろうなと思う.たとえば,「ラグビーマガジン」誌において,関東学院大を「関東学大」,関西学院大を「関西学大」と表記している点などが参考になるだろうか.まあ,実につまならない結論なのだが.
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